星野将利選手 インタビュー

2008.08.01

 2008年1月2日、冬晴れの国立競技場。全国大学ラグビー選手権(大学選手権)準決勝が行われていた。

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 各大学にとって、この舞台に進出することは"正月越え"と言われている。日本一を目指すうえでのひとつの関門、ささやかなステータスだ。その壁を乗り越えた選手の多くは「みんなとラグビーをしながら新年を迎えることができて幸せです」と、口にする。

 そんな舞台へ9年ぶりに上り詰めた明治大学は、慶應義塾大学と対戦した。22対34で敗れる。キックオフで風上陣地を取った慶応に前半だけで4トライを奪われ、ついぞその差を挽回できなかった。

 試合後、真っ赤な目でグラウンドを振り返りながら、控え室に消えていく明治のウォーターボーイの姿があった。星野将利である。本来は切れ味鋭い突破が自慢で、BKのポジションをほとんどこなす、エース格だった。

 しかし、正月2日の大舞台は、"ある理由"でメンバーから外れていた。

――ラグビーを始めたのは、長野県の上郷ラグビースクール(RS)で。

「中3の最後、9月か10月くらいでしたね。(中学校で所属していた)サッカー部の最後の大会が終わってから。兄ちゃんとその友達がラグビーをやっていたので、元々やってみたいなとは思っていました。(実際に始めた時は)何をやっていいのかわからなかったけど、『とにかくボールをもらったら走れ』とコーチに言われていたのでただ前に走ろう、と。あと、サッカー部だったのでトライを決めた後のキックも蹴らせてもらっていました」

――そして、岡谷工業高校でもラグビーを続けます。当時の岡谷工業では湯沢一道監督(現飯田高校監督)が競技初心者を合理的に鍛え、花園出場など

成果を挙げていました。

「ラグビーを始めたきっかけが『ボールを持ったら走れ』だったし、岡谷工業も初心者の部員が多かった。だから自分がどんどん前に行こうという感じ。プレースタイルは今もそのままです。思い出すのは2年生時の最後の花園、東福岡(高校)とやった試合ですね(全国高校ラグビー選手権大会2回戦・2002年12月30日・近鉄花園ラグビー場・●=82対7)。その時3年生で、仲良くしてくださった中島裕太郎さん(06年度大東文化大学ラグビー部主将)が終了間際にトライを決めて、僕はその後のゴールキックを決めたんです。中島さんがトライしたときはいつもキックを外してたから、この時は絶対に決めたかった」

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――その後、明治に入学した経緯は。

「(3年次の)春の選抜が終わった後、監督から『メイジから推薦が来ているぞ! 行くよな!』 と(笑)。本当は大学なんて行くつもりなかったんですけど、親も喜んでいたし(進学を決めた)。

 自分の中で(明治についての)イメージはなかったです。『(しばし噂になる)上下関係も今はあまり厳しくはないよ』と言われていたんですけど・・・。最初の1週間くらいの新人合宿がきつくて、練習が終わっても居場所はベッドの上しかない。まだ同期ともそんなに仲がいいわけじゃないから、毎晩親に電話していました。その時も部屋は一人部屋じゃないし、ベランダでは先輩がいるから、ごみ置き場で話すしかない。ホントに辞めようかと思ったんですけど、親に『無理なら辞めて帰っておいで』と言われたんです。普段は『自分の決めたことは最後までやりなさい』と言うような親なのに。だから、逆に『辞めらんねぇな』と思いましたね」

――では、その明治に愛着が涌いてきたのはいつごろからですか。

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「1年生の時に早明戦を観た時はすごいと思いました(関東大学ラグビー対抗戦A・対早稲田大学・2004年12月5日・国立競技場・●=19対49)。当時寮長をやっていらして、僕がよく話していた加藤郁己さん(現サントリーフーズ)にとって初めての早明戦だったんです。普段はふざけたりするんですが、始めて選ばれて試合に出るとなると雰囲気が違っていた。『やっぱ緊張するわ』って。(試合当日は)1年生はFWが控え室、BKがアップ場の掃除をすることになっていたんですけど、どうしても試合直前の先輩たちを見たかったから、掃除の場所を(控え室に)替わってもらった。その時の先輩たちは気合が入っていた。みんな泣いて、紫紺のジャージの左胸のところをグッと掴みながらグラウンドに出て行ったんです。『カッコいいな、自分も出て勝ちたいな』って思いました。

 早明戦、今思い出してもぞくぞくしますね。失礼な言い方ですけど、明治にとってはまず早明戦があって、その前の対抗戦の何試合かは『早明戦に向けての試合』なんですよ。『早稲田には負けられない』っていうのがある。当時は早稲田が強くて、『負けられない』というより『勝ちたい』だったんですけど。1年生の頃の早明戦の後は、同期みんなで集まって泣いていましたね」

――その早明戦。星野選手は3年生、4年生の時に出場します。

「3年生の時は上に先輩もいて気楽だったけど(2006年12月3日・国立競技場・●=21対43)、4年生の時は『これを負けたらもう早稲田に勝つことはできない』と。しかも、同期に出たくても出られない奴から手紙をもらって、気持ちも伝わってきた。負けちゃったけど(2007年12月2日・国立競技場・●=7対71)、出るまでの(準備期間の)価値が大きかったと思います。どの試合でも1週間前からの練習が大事で、すごく集中するんですけど、その集中力がいつも以上でしたもん。それと、それまでの試合ではどうしても『怪我したくない』という思いがあるんですけど、早明戦の時は『自分の身体が壊れてもいいから勝ちたい』なんですよね」

――最後の早明戦の直後、「必ずもう一度早稲田とやりたい」と口にしていましたが。

「(対抗戦日程修了後に)恥骨を痛めてしまったんです。みんなに迷惑かけていると思ってはいたんですけど、本当に痛みがひどくて・・・。大東文化戦(大学選手権1回戦大東文化大学戦・2007年12月16日・愛知県瑞穂陸上競技場・○=43対0)は、試合前に座薬を入れて、痛み止めを飲んで、無理してやったんです。その時、座薬がすごく効いたんで『大丈夫かな』と思ったけど、その後痛みが日々ひどくなって『こりゃまずいな』と」

――そんななか、チームは2回戦・京都産業大学戦に勝ち(2007年12月23日・近鉄花園ラグビー場・○=29対0、星野は欠場)、1月2日に国立競技場で行われる準決勝に進出します。

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「もう(決勝カードとして照準を合わせていた)早明戦に出られなくてもいいから、そこまでチームを繋ぐだけでもと考えました。藤田さん(剛・明治大ヘッドコーチ)も、僕が大丈夫なら準決勝で使いたいと考えてくれていたみたいで、"保留"ということで試合の(登録)メンバーには入れてもらっていました。試合前日に痛み止めを飲んでみて『大丈夫だったら行こう』ということだったんですけど、いざ痛み止めを打って試しに動こうとしたら、最初のジョグもできなかった。薬が効かなかったんです。これで試合に出ても逆に迷惑をかけるだけだし・・・」

 時は流れた。あの日悔し涙にくれた星野は現在、砧グラウンドで汗を流している。リコーブラックラムズに入団していたのだ。

 グラウンドで闘う仲間にまともなアドバイスをできぬまま破れた準決勝のことは、簡単には忘れない。ただ、今はもう走ることができる。ラグビーと出会った頃から得意としてきたランプレーを、思う存分披露できる。
「(リコーでも)やるからには1年目から試合に出たいですね」

 6月7日、自身にとって久々の試合であるクボタスピアーズとの練習試合で2トライを決める。それ以降も「ボールを持ったら前へ」と、よく研がれたカミソリのような突破を披露していた。トッド・ローデンヘッドコーチ曰く「選手に均等にチャンスを与える」時期の試合で、それなりのアピールはできたと言える。

 まもなく始まる夏合宿を経て、首脳陣のファーストチョイスに加えられるか。

(文 ・ 向 風見也)

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